Krishnamurti 命名なき観察    Ver 1.21


―言葉によって(外的・知覚的/内的・心理的)対象を名づけることなき、言語(内語)による認識なき観察―




さて、嫉妬に気づいたとき、何が起こりますか。
私たちは、まずそれを非難するか正当化(合理化)しようとします。
たいていの場合は非難します。
なぜなら私たちの受けてきた教育がそうするよう教えているからです。
私たちは妬みを非難するよう育てられてきました。
たとえ私たちが始終妬み深かったとしても、為すべきことはそれなのです。
妬みを非難することによって、それを無くそうと望みます。
しかし、それはくり返し起こります。
妬みは比較する心があるかぎり存在します。
私が自分を、より魅力的な、より能力のある、より立派な誰かと比べているかぎり、
それは起こり続けます。
比較する心が妬みを育てているのです。

そして、あなたがこの問題を、更により深く突っ込んで調べるなら、
あなたがその感情に「嫉妬」と名づけることによって、
その感情は続くということが分かってくるでしょう。
あなたはいつでもその感情に名前をつけます。
「私は妬み深い」「私は嫉妬している」と言います。
しかし、それに名づけることなしに「妬み深い」ということはあるのでしょうか。
ひとがそれを自覚できるのは、感情に名づけることによってではないでしょうか。
あなたはどうやって自分が妬み深いのを知るのでしょうか。

どうかそれを非常に単純に取り上げて下さい。
あなたが、それに「嫉妬」と云う名前を与えた後にのみ、
あなたはそれを知るのでしょうか。
それとも、あなたはその感情自体を、あらゆる言葉から独立に知るのでしょうか。

ゆっくりと進みましょう。
私は妬み深い。そして私はそれを非難します。
なぜなら妬みを非難することは、
私が子供のときから受けてきた教育の一部だからです。
しかし、それは続きます。
それで、私がほんとうに妬みから自由でありたいなら、どうしたらいいのでしょうか。
それが問題です。

私はその感情が続いて欲しくありません。
なぜなら、それはあまりにも馬鹿げているからです。
私はその愚かさが分かります。
そして私はそれから自由でありたい。
では、どうやって心は妬みから自由になったらいいのでしょうか。

まず最初に、「比較すべてが止まなければならない」ということを見なければなりません。
そしてそれを本当に見るには、非常に辛抱強い調査を必要とします。
なぜなら人の受けてきた教育の全体が比較に基づいているからです。
―あなたは、あの人と同じように(に負けないように)立派にならなければならない、などなど。
それで、心は比較することを止めることができるでしょうか。

そのとき問題はこうです。
ひとがある感情に気づくとき、それに名づけないでいることはできるでしょうか。
それを「妬み」と呼ぶのを止めることができるでしょうか。

あなたがこれを実験するなら、
感情から言葉を分離するためには、
心がどれほど並外れて油断なくなければならないかを知るでしょう。
このすべてが気づきの一部であり、そのなかに少しも努力は含まれていません。
なぜなら、あなたが努力するや否や、あなたは獲得という動機を持つからです。
したがって、あなたはなお妬み深いのです。

心がそれ自身を何か他のものと比較しているかぎり、心は妬み深いのです。
そして心が「妬み」と、その感情に名前を与えるかぎり、それは妬み深いのです。
なぜなら、それに名前をつけることによって、その感情は強化されるからです。

心が比較しないとき、
心が感情に名前を与え、それによってそれを強化してしまわないとき、
あなたがためらいがちに、非常に注意深く、勤勉に進むなら、
気づきが心を妬みから根本的に解放するということを見出すでしょう。



あなたは、思考・雑念から解放されたいが故に、
それを観察しようとしているのではないでしょうか。
と云うのは、
あなたは「私はそれから逃れることができません。それは幾度も繰り返されます」
と言っているからです。
あなたは特定の思考を取り除くことに関心があるのであって、
それがあなたの観察の動機です。
したがって、それを完全に見守り、学びつつある訳ではまったくありません。

あなたが望んでいることは、
単に、やっかいな、自分を苦しめる特定の思考から逃れることだからです。
それが心地よいなら、それをずっと持っていようとするでしょう。
しかし、それを取り除きたいという欲望・意図を持って現にある思考を見ているとき、
思考を完全に理解することはできません。
重要なのは、
「少しでも非難の感覚があるなら、思考を完全に理解することはできない」
ということの理解です。

私は、特定の思考を、
それに対する更なる思いなしに注意して見守ることができるでしょうか。
その特定の思考に命名すること自体が、既にそれの非難です。

私は貪欲でねたみ深い。
そして私は単にそれから逃れたいのではなく、
そのねたみを完全に理解したい―私たちは普通、それを無くしたいのですが―
そして、色々なやり方でそれを試みるのですが―
しかし、それは結局、通底して続きます。
しかし、本当にそれを理解したいなら、
本当にその根源まで行こうとするなら、
確かにそれを非難してはなりません。

それでは、その「ねたみ」という言葉と、
そう呼ばれている「感情そのもの」とを引き離すことができるでしょうか。
「ねたみ」という言葉と、
その心理的・宗教的な含蓄―つまり「非難」の意味―は関係しています。
それゆえ、私は感情そのものから言葉を引き剥がすことができるでしょうか。

もし感情を言葉なしに見ていることができるなら、
そのとき、それを観察している実体―「私」はあるでしょうか。
観察者とは、たしかに言葉の塊であり、それを「非難している」実体なのです。

更に、もう少しこれを調べましょう。
どうか、働いているあなた自身の心を実際に見守っていて下さい。
単に知的に、言葉の上で私に聞き入っているのではなく、
あなたのねたみや暴力、あるいはどんな特定の感情であれ、
注視し観察していて下さい。

たとえば、私はねたみ深い。
それに対する普通の反応は、同一化(合理化)か非難かです。
私は、私が「ねたみ」と呼ぶその感情に、
同一化か非難かのどちらかでもって反応するのです。

さて、私がそのどちらもしないなら
―それは、極めて難しいことなのですが―
なぜなら、それは私が、私が育てられてきた文化、私の過去の価値観、
それらすべてから解放されてあらねばならないことを意味するからですが―
私が、それらから自由であるなら、
そのとき言葉からもまた自由であるに違いありません。

私の心は、言葉、シンボル、観念によって組み立てられています。
これらのシンボル、観念、言葉こそが「私」なのです。
そして言語化がないとき―実は、それがねたみの本質そのものなのですが―
それと関係しているすべての終止があるとき、
ねたみの感情があるでしょうか。
その「私」がないとき、一体、ねたみが存在するでしょうか。
その「私」こそが非難、言語化、比較の本質だとしたら。

思考を完全に理解するためには、
その根源そのものにまで行くためには、
非難、正当化、その他一切がなく、
問題を克服しようとする感覚すらもない気づきがなければなりません。
なぜなら私が単に問題を解消しようとしているに過ぎないなら、
そのとき私の注意はそれの解消に焦点を合わせられており、
問題の理解に焦点を合わせられていないからです。

問題は、私の思考の仕方、私の行為の仕方にあるのです。
そして私が、自分の今そうであるありさまを非難するなら、
それは明らかに更なる調査を妨げます。
私が「そうであってはならない」というなら、
そのとき、その私の欲求・ 要請そのものが、ねたみ・欲張りなのであり、
理解はないのです。

問題は、どんな価値判断や非難の感覚もなしに、
そんなにも深く気づいていることができるかどうかです。
と云うのは、そのときにのみ思考を完全に理解することができるからです。



あなたは又、感情の過程をも観察されるだろうか。
森の中で突然、見たこともない動物にでも出くわしたかの如くに、
それを観察なさるだろうか。



それを名づけないならば―
それは、あなたがその感情と同一化していないことを意味しますが―
そのとき、その感情は今だけのものであり、ひとりでに消えていくでしょう。
名づけることによってそれは強められ、思考の過程としての持続性を与えられるのです。



心は中心なしに恐怖を見ることができるでしょうか。
それに命名することなしに、その恐怖を見ることができるでしょうか。
それを「恐怖」と呼ぶや否や、それはすでに過去のなかにあります。
何かに命名する瞬間、あなたはそれを分離するのです。
それ故、それが起きている今、この瞬間、
それに命名することも中心もなしに観察することができるでしょうか。



苦しみというものに名前やイメージを抱くこと自体が
苦しみと自分とを隔てさせる原因となります。
それを受け入れたり、押しのけたりしようとせず、
苦しみが自分であると自覚したとき、
あなたは苦しいと言うでしょうか。



日常生活の最中にある自分自身を見守ること。
それがどんな風に考え、どんな風にすばやく感情に―それが起きるたびに―
名づけているのかを見て取ること。
その全体の過程を見守ることが、心をその中心から解放するのです。



「怒り」というものは嫉妬や憎しみと同様、非常に心をかき乱すものです。
しかし、怒りを言語化(言葉による命名・認識)することなしに直接経験する人は
ほとんどいないのです。

もし私がそれを言語化せず、それを怒りと呼ばないならば、
確かに違った過程が始まっているのではないでしょうか。
もし私たちが新しい経験に命名しなければ、
そのとき直接理解される経験が生まれるのです。



あなたが私になにかを言い、私はそれを不快に感じます。
つぎの瞬間、私は私の嫌悪感、怒りに気づきます。

怒りの感情の認識―それは常に事後的にのみ生じます。
怒りの瞬間、私はそれを認識できません。

そこで何が起こっているのでしょうか。

過去が現在に干渉します。
私は常に現在の事実を過去の言葉に翻訳しているのです。

では、現在を過去の言葉でもって翻訳することなく、新鮮な心で見守ること、
怒りに新鮮に出会うことができるでしょうか。

私は自分自身についてイメージを持っています―
望ましい、立派で、価値ある何かとして。
あなたはそのイメージを侮辱しました。
反応するのはその古いイメージ、その過去のかたまりなのです。

そこで次なる問いはこうです―
反応が古いものからではないことがあるでしょうか。
「古いもの」と「新しいもの」、「過去」と「現在の事実」との間に
ギャップがあり得るでしょうか。
新しいものが起こるのを可能にすべく、
古いものの反応が遅らされるということが起こり得るでしょうか。
それが問題の全体だと思います。



あなたがそれに命名するとき、
あなたはそれを「名づける」と云うことを通して過去と関係させています。
あなたは過去によって汚された眼でもって暴力を見ているのです。
あなたはそれを新たには見ていません―それがすべてです。







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